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群声 前編 |
梅雨も明け、からっとした暑さが訪れる頃。 夏の風物詩、花火大会も盛んになる。 夜空に花開く、一瞬の鮮やかさ。 下から見上げるその美しさに、大人も子供も魅せられる。 夏の風物詩というだけではなく、人と人の出会いもまた祭りを盛り上げる力のひとつだ ろう。 同じように夜空を見上げ、同じように歓声を上げる。 美しいもの、見事なものに対する素直な賞賛は、人の心を無防備にする。 そう。 だから、そこに彼がいてもおかしくはなかった。 浴衣や夏らしい服装の人波の中、ジャケットをきっちりと着込んだいつもの姿で、彼は 立っていた。 「…ヒカル…?」 僕の声にやや驚いたようにこちらを見たのは、氷室ヒカル。 「………」 「…そんなに嫌そうな顔しなくてもいいじゃない」 ヒカルの眉間に寄った皺に、僕は思わず苛立った声を上げていた。 ヒカルは紺の浴衣姿の僕を珍しいものでも見るように見ている。 「純柴君?」 「ああ、ちょっと待ってて」 可愛い浴衣姿の女の子達の怪訝な視線に笑顔で応えて、僕は人ごみを縫うようにヒカル の側へ移動しようとした。 「……あ……」 女の子達のほうを向いたわずかな間に、ヒカルの姿は消えていた。 かなり遠くにヒカルの淡い色合いの髪が見えていた。 それを見送って、僕は軽く舌打ちをしていた。 何のためにこんなに苛立つのかもわからないままに。 成績は優秀だがめったに登校しないヒカルは、親しい友人もいない。 プリントや連絡などは、登校させることを諦めた教師がファックスで送信して済ませて いるようだった。 それでも月に何回かは教師もヒカルの家を訪れるし、クラス委員がクラスを代表して自 宅を訪問して様子をみるという面倒なことも行っている。 そう。新年度から、僕がクラス委員だ。 僕の中学は能力別クラスを採用しているから、ヒカルと僕は同じクラスになっている。 「……遊びに出てるくらいだから、完全な引きこもりじゃないんだよな。ヒカル……」 昨日見たヒカルは、ちょっとだけ楽しそうに見えた。 それだからこそ、僕は彼に声をかけたくなったんだし。 夏休みを控えて、諸注意が学校から出されている。 僕の足は、ヒカルの家へと向いた。 どうせ出ないと思いながら、僕はヒカルの家のチャイムを鳴らした。 両親は、海外で仕事をしているとか聞いた。 だから、ヒカルは気ままに生活できるんだろう。 僕が言うのもなんだけど、いい気なもんだ。 目の前のヒカルの家も、収入の多さがわかるような家だ。 在りがちな、庭付き一戸建て。 でも、家は建売とかじゃない。 二度目のチャイムで、インターフォンに応答があった。 「…はい…」 僕は驚いて、一瞬言葉を失った。 何度訪問しても、ヒカルは居留守を続けていたから。 「あ…。ヒカル…、いたの?」 「……用は、何だ」 インターフォン越しのヒカルの声は、いつもの不機嫌さに輪をかけたような凶悪な声だ った。カメラ付きのインターフォンだから、訪問者が僕だというのはわかっているらしい。 「夏休みの注意事項と、担任の伝言を…」 「………」 ちょっとの間沈黙があって、ドアのロックが外される音がした。 Tシャツとジャージ姿で、ヒカルは玄関に立っていた。 「……入るか……?」 「ああ。…うん…いいの…?」 「早く、入れ」 初めて入るヒカルの家。 しんと静まり返った家は、生活感がまったく感じられなかった。 「ここにいろ」 まるで犬にでも命じるように僕に言うと、ヒカルはさっさと階段を上がっていった。 僕は一人玄関で立ち尽くす。 広い玄関。 手入れされた床や棚。 グラビアに載っているような機能的で美しい空間。 まるで人を拒んでいるような、あまりにも整然とした空間。 僕はふと、息が詰まるような気がして、入ってきた玄関を振り返った。 空気を入れ替えたい。 そんな誘惑に駆られて、僕は玄関のドアを開け放った。 静かな空間に、ゆるやかに風が流れる。 外は暑いけど、僕は心地よかった。 ふっと息をついた僕が時計を見ると、もう15分以上経っている。僕は玄関を閉めると、 もう一度時計を見た。 待てど暮らせど、ヒカルは降りてこない。 「人を待たせておいて、何やってるんだよ」 僕はだんだん腹が立ってきた。 靴を脱ぐと、躊躇うことなく階段を上がる。 吹き抜けになっているホールを見下ろす位置まで階段を上がり、僕はこれからどうしよ うと一度足を止めた。 「ヒカル……」 僕は、ヒカルを呼んでみた。 当然のように、返事がない。 「ヒカル!!」 無人の家のように、反応がない。 二階ホールの向こうにも、ドアが三つほど見えていた。 そのうちのどれかがヒカルの部屋なんだろうけど、うっかり開けるわけにはいかない。 「ちょっと、いい加減に……」 「うるさい!!」 思いがけず声が近くて、僕は思わず飛び上がりそうになった。 「こっちだ。入れ」 僕のすぐ側にあるドアが、半開きになっていた。 ヒカルの怒声は、そこから聞こえる。 ドアを開けると、機械の独特の低い音とともにマウスを操作する音が聞こえた。 「ヒカル…?」 数台のコンピュータを設置したヒカルの部屋は、いかにも『氷室ヒカル』の部屋らしか った。 熱帯魚と珊瑚の水槽。 壁一面の本棚、反対側にはクローゼット。 机と椅子と、ベッド。 中学生の部屋にしては、素っ気無い。 大型のディスプレイにはきれいな光跡があった。 「何、それ…」 僕が後ろから覗き込むと、ヒカルはちらっと目の隅から僕を見てぼそりと答えた。 「花火」 「は?」 「花火の火花の解析」 ヒカルは昨日見た花火を、ディスプレイ上に再現していたらしい。 僕を家に入れたのも、意見というかコンピュータにデータを入れるためだったようだ。 僕の用件などそっちのけで、ヒカルはあれやこれや花火について僕から聞き出し、黙々 とデータを打ち込む。 仕方なく僕はヒカルの側に立って、ディスプレイを見ていた。 きれいに再現された花火の光跡。 ヒカルの指が流れるようにキーボードを操作すると、光跡が歪んだ。 「今の、どうして歪んだのさ」 「…なかなか難しいな。俺が手を加えると、形が狂う。……花火職人というのは、すご いな。こんな計算なしで、あのきれいな形を作るんだから」 無表情ながら、どこかヒカルは楽しそうだった。 今までむかつく相手だと思っていたから、ヒカルの顔なんかまともに見たことなんかな い。 整った顔立ちだって、こっちのむかっ腹の原因みたいなものだし。 夢中でディスプレイを見つめるヒカルの横顔は、とても…認めたくないけど…きれいで 可愛かった。 僕は、無愛想でお高くとまっているとばかり思っていたヒカルが、ディスプレイ上に咲 かせた花火を子供のようにじっと見ているのを見て、なんとなく微笑ましい気分になった。 ヒカルは人間より、コンピュータやヴァーチャルゲームのほうが好きなだけで、きれい なものや楽しいことが嫌いなわけじゃないんだ、と今更ながら思った。 それも、充分問題か…。 僕は、今晩の花火大会の主催者に伝(つて)があることを思い出した。 「ねえ、ヒカル」 「………」 「ヒカルってば、聞こえてる?」 「……なんだ……」 「今晩、花火見に行かない?」 ディスプレイばかりを見ていたヒカルが、初めて僕のほうを見た。 不思議な琥珀色の瞳が、僕をまっすぐに見ている。 「男誘って、何の気まぐれだ」 いや、そうなんだけど…。真っ向から見つめて、もっともな台詞に僕は思いっきり赤面 しそうだった。 「いや、あんた昨日も見に来ていたでしょ?どうせなら、特等席で見たくない?」 「………」 「今晩、7時に迎えに来るから」 返事を聞かずに、僕はヒカルに背を向けた。 僕の気まぐれに、ヒカルが付き合うわけがないとわかっていたから。 「わかった」 ヒカルの返事に、僕はうまい返事ができなかった。 「……うん。…じゃ、ね」 僕は逃げるように、ヒカルの部屋を後にした。 後編へ |