「とうやぁーーー!」 殆ど絶叫じゃないのかと云う位の勢いで叫び、仔犬のヒカルがこれまた仔犬のアキラに飛び掛った。 否、ヒカルにしてみれば、それはもう大好きで大好きで大好きなアキラに抱き付いただけの話なのだが、あまりにもその勢いが凄すぎて、傍目には飛び掛ったまま相手の体に圧し掛かっているようにしか見えないのだ。 モコモコした茶色の毛糸の塊が、真っ白な綿飴にじゃれている―――などと、よく判らない想像をして、和谷は違う違うと頭を振った。 「…オマエも大変だよなぁ」 たまたま飼い主の伊角と共に、いつもの公園へ散歩に来ていたラブラドールレトリーバーの和谷がその現場を目撃し、ヒカルに飛びつかれたまま散々に懐かれているアキラに、挨拶の片手間に呆れ返った声を掛けた。 ちなみに、アキラに引っ付きまわるのに一生懸命のヒカルは、和谷への挨拶も忘れ、うんせうんせとアキラの背中をよじ登っている。これは最近になって増えた、ヒカルの新しいスキンシップの一つらしい。 …何だかひどく間違っているような気がしないでもない。が、当のアキラ本人が平然とそれを受け流しているのだから、それはそれで構わないのかもしれないが。 「別に平気だよ。もう慣れたし」 にっこりと和谷に笑いかけながら言うアキラの言葉通り、毎日毎回、公園で出会う度に飛び掛られているアキラはすっかりこんな事には慣れっこだ。 そう言って、アキラはヒカルの小さな体を背に乗せたままで、それまで伏せていた姿勢からひょいと立ち上がりさえしてみせた。その動きと重力に従い、ずり、とヒカルがアキラの背からずり落ちる。 同じ時期に生まれ落ちた為、体格はヒカルと同じくらいのサイズだが、生粋の紀州犬であるアキラは四肢の力がとても強いのだ。毎度繰り返されるヒカルのリアクションによって、更にその踏ん張りに磨きが掛かっていたりもする。 「塔矢、塔矢。オレさぁ、こないだ白川先生の所に検診に行ったら、また少し大きくなってたんだよ」 アキラの体から振り落とされてもめげないヒカルは、濡れた鼻をくんくんと鳴らし、それをアキラの真っ白な毛に押し付けた。大好きなアキラの甘い匂いを目一杯に吸い込んで、今のヒカルはかなりご満悦状態だ。 「すぐに和谷にだって追いつくもん」 未だに和谷に会うと、その大きな足にひょいと引っ掛けられて体を転がされてしまうヒカルはそう言って、べーっと和谷にアカンベーをした。 「…オマエは体よりも精神をもうちょっと何とかしろよ。塔矢塔矢、っていつまでもべったりでいないでさぁ」 呆れたように呟く和谷は、ぺし、とヒカルの頭をはたく。 途端に、むっとしたヒカルが今度は和谷へと突進した。長い足下をくぐって、急所である柔らかな腹の下に入り込み、ていてい、と頭突き攻撃を敢行する。 ―――勿論、どこもかしこも柔らかなヒカルからの頭突きなど、和谷には痛くも痒くもない。と云うよりも、はっきり言ってヒカルの頭は和谷の腹下の毛と皮に掠るだけで、実際にはちっとも届いてないのだ。 よいしょ、と和谷がそんなヒカルの背を跨ぎ、行きがけの駄賃代わりだと、その足元を思い切り良く払った。 「わ、わっ!」 和谷への攻撃の為に、精一杯背伸びをしていて足元が不安定だったヒカルは、すってん、と見事に引っくり返ってしまった。 「進藤っ!?」 これにはさすがにアキラものんびり見ていられずに、慌てて転んだヒカルの元へと駆け寄った。まだ幼い鼻ずらを突き出してその背を支え、ヒカルが起き上がるのを手助けしてやる。 「とうやぁー」 背中が砂まみれになったヒカルは、少しばかり涙目だ。ぶるぶるっと一生懸命体を震わせてヒカルがザラザラする砂を落としていると、アキラも体をこすり付けてきて手伝ってくれた。 「塔矢、オマエも過保護すぎなんだよ。ほっとけほっとけ」 随分と乱暴な事を言っている和谷だが、実のところヒカルの事は結構気に入っていた。 和谷にとって今まで年下の仲間がいなかった分、ヒカルとアキラは弟分みたいなものであり、それなりに可愛いとは思っている。 ただ、大型犬の和谷にしてみれば、小さなヒカルが足元に纏わりついてくるのはかなり邪魔なのだ。遊んでやるのは一向に構わないが、踏み潰しでもしたら危ないではないか。 「何だよ、和谷だっていっつも伊角さんにべったりじゃん!」 ようやっと砂を落とし終わったヒカルが、きゃんきゃんと抗議の声を上げた。 仔犬の声は周囲に危機を知らせる為にとても甲高い。ああもううるせェと、和谷はげんなりとして耳を塞いだ。 「それはいいの!伊角さんはオレの飼い主なんだから」 「何だよ、その理屈!大体―――、」 こら進藤。更に言い募ろうとしたヒカルに、アキラが突如割り込んできた。ぱくりとヒカルの耳を噛み、いい加減にしないかと強い口調で窘める。 「主人を守るのはボク達の役目でもあるんだよ。そんな事を言うものじゃない」 きり、とヒカルを見つめるアキラの目は真剣だ。飼い主である塔矢夫妻を守る事が己の役割であると固く心に決めているアキラには、ヒカルの言葉は聞き捨てならないものなのだ。 ぐ、とヒカルはここで詰まった。他の誰に怒られても自分が納得しない限り、なかなか従えない頑固な性分をしているが、こと大好きなアキラの言う事だけはきちんと聞いておきたいヒカルである。 「…ゴメンナサイ」 少しだけしょんぼりとして、尻尾と耳をぱたりと落とし、ヒカルは素直に項垂れた。 「ボクにじゃない。和谷君にだろう?」 実に真っ直ぐな性格をしたアキラは、自分にも他者にもとても厳しい。 う、ともう一度詰まってから、ヒカルは和谷に向かって―――それはそれは小さな声ではあったが―――ゴメンナサイ、と謝った。 おお、と和谷はある種、尊敬の眼差しでアキラを見た。 ヒカルも根は素直な性格をした仔犬なのだが、鷹揚な性格の平八に甘やかされて育てられているせいか、ちょっとだけ奔放な部分が強い。そんなヒカルをきっちりしっかり躾てやっているのは、実の所、このアキラだったりする。 和谷は思わず心の中で小さな拍手喝采まで送ってしまった。 ぐりぐりと、少しばかり拗ねた様子で、ヒカルがアキラの首筋の柔らかな部分に顔を押し付けていく。 たとえまだ幼いばかりの仔犬であろうとも、ヒカルも立派にオスなのだ。絶対主でもない和谷に頭を下げたのがよほど悔しかったのだろう。 それをよしよしと、見事に宥めるアキラはすっかりしっかり保護者顔だった。 こちらもまだ幼い舌を伸ばし、ぺろぺろと優しい仕草でヒカルの口元、目元を舐めてやっている。 鞭の後の飴、とばかりにヒカルを甘やかすアキラに、傍目にもヒカルの機嫌が少しずつ上向きに戻りつつあるのが判る。 しっかり手玉に取られているような、そうでないような。…尤も、アキラもヒカルも幼子ゆえの無意識天然の行動なので、それはそれで平和なことだ。
――――プチ猛獣使い。
何とはなく和谷がアキラを尊敬した、とある日の出来事だった。
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