『イノセント』
幼い頃、アルビノの少女とすれ違った事がある。
純柴が幼稚園に上がる前の話だ。
こちらは父の部下をお供に母に連れられた、散歩と言うには大所帯の集団で、向こうは下校途中の3人組のひとりだった。
家の職業がいささか血なまぐさく、嫌悪と共に語られると気付いてはいたものの、大人を引き連れて歩く誇らしさに酔っていた幼い純柴は、完全にすれ違うまで彼女の「異常」に気付かなかった。
そしてわざわざ足を止めて振り返り、母にきつくしかられた。
ありふれた赤いランドセル、陽に透けて薄い真珠色の髪に、お仕着せの黄の帽子が不釣り合いだった。
しばらくしてあれがなんであったか知識を得た頃、檻に守られた赤い目の蛇を見たのがアルビノ体験の2度目で、3度目はまた人間だった。
アルビノ、白子、色素が欠乏した人。
「ヒカル」
「起きなよ。この時間に眠っていたらいつが夜なのさ」
勝手知ったる他人の家だ。
起きろと声をかけながら、卓上のライトを灯すだけにしてやる。
ぼんやり照らされ蒼味がかったベッドに、人ひとり分の柔らかい線が浮かんだ。
腐れ縁と言うのか、中学が同じだったという理由で高校生になっても、目の前で眠るこの知人宛ての用件は純柴にまわってくる。
入学して半年も経てば新しい友人が出来そうなものなのに、彼に限ってそれはない。
何度も来訪して本人より先に両親の信頼を得てしまうと、「ヒカルをよろしく」と鍵など渡され、出入り自由の身になった。別に嬉しくもない。
子供の僕によろしくされる事を、あんた達は恥じた方が良い。
だいたい、こいつは高校生になっても出席日数ギリギリしか登校しない。だから友人どころか知りあいも増えない。
「ヒカルってば。」
嫌なら進学しなければよかったのに。
「ほんとに寝てるの?」
成績は決まってトップクラスで、運動神経も悪くない。
彼に興味を持つ人間は、多いはずだ。反感も含め。
たまに出席しても“たまに”であること以外問題を起こしはしなかったから、事なかれ主義の学校という閉鎖空間では、欠点でさえないのかもしれない。
どんなに頑張っても追いつけない。
こんな奴に会うまで、一体自分が常にナンバー2に甘んじるなんて、思いもしなかった。
でも、だって、ヒカルは普通じゃない、から。
出会った当初は他人に興味を示さない相手に高慢だと腹をたてもした。が、半ばそれが他者に対してのヒカルの防御ではないのかと思い当たってからは、咎める気さえ起きなくなった。
彼の反応に腹をたてる事はむなしい。少し考えれば分かる。
興味の湧くものには手を伸ばすし、執着だってするんだ、ヒカルは。
だからヒカルの視線に入らなかった者達は無視された事で彼を非難するのではなく、自分がヒカルの目に入らない、その程度の存在だって気付かなくてはいけない。
僕に諦めを学習させてくれた、ありがとうヒカル。
必死になって得たスキルも評価も、つきあいでちょっとやってみただけのあんたが勝つんだから。
一向に目覚めない、仕方がない、教師に押し付けられたプリントをパソコンだけが置かれた机に預け、純柴は眠る友人からタオルケットを剥いだ。
遮光カーテンで閉め切られた照明の少ない部屋でもヒカルは白い。
色白、という極端ではない、アルビノというのは。
肌だけなら陽に焼けていないのだと思えたかもしれないが、産毛まで白く、煙に縁取られたかのようで眼に眩しい。
そこまでされてやっと目覚めたらしい。
白い顔が覗き込んだ純柴を捕らえると、たちまち額に縦皺が寄るのが面白い。
でも表情を作るまでの一瞬に、ヒカルが全身で驚き、次いで相手を認め安堵したのを、純柴は見逃さなかった。
まだ眠いのだろう、二重が濃くなっている。
「…る」
かすれた声が洩れた。
瞳にも色素がない。角度によって琥珀、それとも赤だ。
ヒカルが持ち得ないものを、確かめるのが純柴は好きだった。
「…どうしてお前がここにいる…」
ヒカルはゆっくり起きあがると、ベッドに座った純柴に退くように言った。
言われた通り退いてやる。
無理矢理押しのけたっていいだろうに、こんな時だけ言葉で示すのだ。
命令の形の懇願だからか。
目の前を白い素足が通り過ぎた。
「なんで下履いてないの」
「…起きていられなくなるギリギリまで、起きていたんだ。」
ヒカルは眠いとストリップか、パジャマの上だけ着て寝るわけか。ひきこもっているくせに均整のとれた身体。
どこに視線を合わせればいいのか困っている自分に気付いてなぜだか怒りが湧く。
まぁ仕方ないけどさ。
なにが。
「用件はそのプリントだよ。親にも見せて印鑑押して出せって」
「わかった。」
当の紙束にも、わざわざ運んでくれた友人にも一瞥もくれないまま、だが珍しく返事を返し姿を消して暫く、階下から戻って来たヒカルはパジャマの上下を着、左手に印鑑、右手に缶ジュースを2本持って現れた。
「眠る気満々だね。」投げられた缶を受けとる。
ヒカルにしては出来た配慮だ。来客に飲み物を出す。
「今何時だ。」
「六時過ぎかな。」夕方の。
「じゃあもう起きる。」
「何時に寝たの?」
再びベッドに腰掛けた純柴の鼻先に、プリントが突き出された。
「二時。」
「じゃなくてさぁ、」
つい受け取り、印鑑の朱色まで確認してしまった。
「僕が出すの?親にハンコもらうんだよコレ。」
かわりに軽くなった缶を差し出すと、ヒカルは素直に受け取ってそれをフローリングの床に置いた。
間をおかず純柴から離れようとするのを呼び止める。
ヒカルは立ち止まったが、寄りもせず去りもしなかった。
「……今日は帰って来ない。」
「捨てられた?」
言った途端に睨まれた。
「…置いてかれた?」
やだな冗談が通じない。そんな目まで薄めなくてもいいだろう。
「冗談だよ、出張?」
「ニンゲンに会ったのは4日ぶりだ。」
…人間ね。
「いまさらだけど、そのうちおかしくなるよヒカル。」
「それで、明日も来ない?来れない?」
答えを期待しないで勢いよくベッドを占領する。
背中に、さっきまで寝ていたヒカルの体温が微かにしみる。
ヒカルに普通に体温があるという事、暖かいという当たり前さえ僕には意外だ。
それ程、原体験は強烈だった。
アルビノの少女、彼女のまわりはねっとりとして、すれ違い捉えた白さで違いに気付いたのではないと、純柴は思っている。
流れた風が確かに冷たく鋭くて、濃厚な印象と矛盾していた。ヒカルみたいに。
「あそこは高そうだろう。」
「えっ?何が?」
「湿度。学校。暑苦しい。」おかしなヒカル。
もっと助詞を使おうよ。あんた国語だって悪くないんだろう?
僕の思考とヒカルの答えが繋がったのもおかしくて、僕はつい声を立てて笑ってしまい、ベッドの側に立ったままのヒカルの手をとった。
「じゃあ辞めれば学校。僕もお世話係仰せつかわなくて済むし。」
「…」
握った指先に力がこもったのがわかったけど、ヒカルは逃げないはず、だ。逃げる理由を思い付くまでは。
「昔、あんたに会うずっと前、白子の女の子とすれ違ったことがあってさ」
「…前に聞いた。」
ほらね。彼は自分からしりぞく行動をとらない。正確に言うなら、とらないのではなくとれない。意地っ張り。
今だって、逃げようとして途中で止めたろうヒカル。
「…」
「自分以外にそういうのに会った事ある?白子シンジケートがあったりして。」
冷たい指先を弄び、爪を弾き、皮膚の下の骨の白さを考えながら僕は言う。意味のない会話だ。
原体験なんて本物を前にしたらただの過去の事象だもの。
白から連想ゲームをしたら、きっと僕はヒカルしか浮かべない。ヒカルだけで足りると思う。ヒカルの髪、ヒカルの皮膚、指先、息、肉の薄い胸とか、骨は何番目だろう。
「ほんとに知らない?」
「勝手に探せ」
僕を見下ろす睫毛が白く揺れる。
「まぁ正解だね。」
僕の言っている内容、理解できちゃいないよね。ヒカルの全部は僕が絡めた指に集中しているんだから。
僕はどうしてこんなにあんたの事がわかるんだろう。
「触られるのは嫌?」
驚いたような怒ったような視線が、僕の顔から握られた自分の指に流れた。考えている。そうそうこんな感じ。
「ヒカル。」
白は清潔で、無垢な色だ。
あの女の子がまとっていた空気や、記憶に残る存在感だとか。アルビノである以外あとはつまんなそうだったけど。冷たくて、綺麗に思えたんだよね。清らかって言うのかな。皮膚から周囲10センチだけ森林浴、って感じかな。不安、不吉、曖昧なものが、形を成して通り過ぎた感じ。
何色にも染まるのに、時には反射して拒絶する。
「…俺は独りがいい。」
「知ってるよ。でも聞いてないよそんなこと。」
言って視線を外し、指も離してやる。僕は起きあがったが、ヒカルに隙は与えなかった。膝立ちになり、肩に伸ばした腕に体重を乗せて引っぱった。
不意をつかれて僕に組みしかれる体勢になったヒカルを、今度こそ押さえ付ける。僕の下でヒカルは、陸にあげられた魚みたいに息をした。
僕は優しいんだ。
だって隙をあけたら、ヒカルは考えてしまう。
考えて答えが出るなら待ってあげるけど、出せないで立ち止まるから中途半端なひきこもりなんだ、ヒカルは。
僕を拒んで上腕に食い込ませた腕が、怒りで震えて痛い。
「じゃあ触るな」
「いやだ。」
全身で抱きしめた。
「純…」
僕の腕からずり上がったヒカルは、ベッドの飾り棚に突き当たって逃れられなくなった。
僕達の体格はほとんど同じだし、本気なら押さえた位で抵抗を封じたりできない。
「ヒカルは何が嫌なのなんで嫌なの。ホントに嫌?」
「離せ」
「嫌ならもっと逃げればいいし、僕は暴力はごめんだし、僕が嫌いなら先に断るとか、鍵でも換えればいいし、返せっていうなら返すしさ、学校は辞めればいいんだし、来なかったらそのうち来るってわかってただろう。」
「違う」
ヒカルの体が抵抗を緩めた。
瞳には怒りとか困惑とか驚愕とか。
ヒカル、あんたは構われたくないのに、構われたい。
独りがよくて、誰かに会いたい。
どちらも見切れない、選べないんだ。
寂しいのは、一緒に誰もいない事じゃない。孤独は独りで居る事じゃない。
僕も腕から力を抜いて、逃げないヒカルの鎖骨に唇で触れた。
ヒカルはもう抵抗を止めていたけど、少し震えてからゆっくり息を吐いた。
合わさった僕の体に緊張が伝わらないように。
「…ヒカルがいなければよかったのにって、思うことがよくある。」
顔を上げてヒカルを見る。
「いなければ、ゲームも学校も僕が一番だ。」
うっすら開いた唇にくちづけると、金の瞳が黙って僕を見つめた。
「でもいなくなったら見つけるまで探すかもしれない。」
「そんなの、最悪だよ。いなければいいと思ってるのに、いる時よりあんたの事を考える。この僕がだ。」
「…お前の言うことはわからない。」
「うん、僕も矛盾している。」
もう一度、ヒカルの胸に唇を落す。力任せに組みしいたせいで縒れたパジャマの釦を外してみる。ヒカルは動かない。
「僕も焼けていない方だと思うんだけど、全然違う白だよね…」
はだけた先は透けそうな白だ。
手のひらを並べて色をくらべる。血が通っていなかったら、きっと陶器みたいだろう。何度触れても温かいのが信じられない。
僕の唇が下りるのにあわせてヒカルの躯が薄く染まり始め、中でも濃い薄桃に歯をたてるとやっと制止の声があがった。
「純柴待て。」
「ここまでしか、ダメ?」
指で躯に横一本の線を引く。線を境に胸より上、胸より下、胸より下はダメ、と。
「そういう意味じゃない。」
「僕にはわからないよ。」
独りでいて孤独より、大勢の中で寂しいのに耐えられないなら、せめて拒まないで欲しい。
「僕が来て嬉しいだろ?」
体を起こして顔を寄せると、大きくため息をついてヒカルの腕が僕の首にまわった。
「…わからないのはお前だ。」
小声で、彼は言った。
導かれるまま舌を味わう。
胸より上。
腕の中にいるのは白くて不思議な生き物だ。僕はいつまでも慣れないだろう。
矛盾していたっていい、無理に答えを出さなくていいと思う。
目を閉じても、暗闇でもいつでも、僕はヒカルの姿を浮かべることができる。
雑踏の好奇の視線をはね除けながら、太陽まで反射して、彼は独りで進んでいく。
呼び止めれば不機嫌に、でも振り返る。
はねた光は強いひとすじになって僕を射た。
僕はうなづく。
嘘がつけなくて立ち止まる、その汚れのなさに惹かれてしまう。
〈おわり〉
<作品に対するコメント>
モラトリアムなふたり、自説の氷室ヒカル白子説でした。
(真っ白のヒカルは結構恐いし、気持ち悪いと思います。)
なんだかもうどうなのこれーという感じです。
アルビノ少女との遭遇は、私の実話でした。
〜 みかえる 様 〜
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